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生命科学研究の驚異的発展と生命倫理課題

著者:倉地 幸徳

私が現役を退いてから既に7年になるが、この10年間の分子遺伝・生物学分野の発展には驚くべきものがある。特に、標的座位遺伝子の正確な改変(編集)を可能にするCRIPR-Cas9とその様々な発展形の開発は、遺伝/生物学と医学研究に新しい地平線を開いた。現段階では、この方法によるオフ・ターゲット遺伝子編集の問題が十分には克服されておらず、完璧という段階までもう一息というところである。この背景に、2004年に宣言されたヒトゲノム全構造の解明、という金字塔がある。今日のこの状況は、遺伝子の正確で特異的改変がまだ困難だった頃に研究生活を終えた私にとっては、実にうらやましい環境である。

さて、遺伝子編集技術の基礎研究とその応用が急速に進む中、改めて、研究倫理、特に、生命倫理に関わる深刻な問題と課題が、より鮮明で切実になった。最近、中国の研究者によるHIV耐性獲得を目指した研究で、CCR5遺伝子編集を受けたヒト受精卵を用いた新生児誕生という、まさに生命倫理にかかわる深刻で杜撰な人体実験が発表され、国際社会に衝撃が走った。これは、生命倫理感覚と規制がゆるい国においては、容易に遺伝子編集をしたヒト生殖細胞を用いた新生児の誕生が起きうることを示したもので、ヒト受精卵の遺伝子編集技術が早くもslippery slopeに一歩を踏み出したことを意味するものであった。この研究に対して、国際社会だけでなく、とってつけたように中国政府も非難を発表したが、私には、ヒトの一般形質の恣意的編集に向かう倫理的バリアーさえも大きく低下した、と感じられた。今回の場合、遺伝子編集技術のヒトへの応用が、どのような影響を次世代に及ぼすのか、についての極めて貴重なケースであり、生まれてきた子供たちに関しては、一生涯にわたる十分な保護と医療観察と提供がなされることを願う。

一方、受精卵の全ゲノム置換を行うクローン技術は、これまでペット動物や家畜動物で、既に広く実践されてきており、技術的完成度も非常に高い。しかし、生命倫理の観点からの論議と規制・管理が十分行われてきたのか、の点については疑問がある。

ヒトを対象にしたゲノム編集の深刻な問題は、人が神の領域に進出した場合、一体将来どのような運命が人類を待ちうけているのか、誰も明確には分からない点である。この段階では、研究者社会と各国政府が共同し、生命倫理の観点からヒト受精卵の遺伝子編集とヒトのクローニング研究に関して超えてはならない一線を明確にし、違反に対する厳格な罰則を含め、強制力のある国際的合意が急ぎなされるべきであろう。


倉地 幸徳

1970年、九州大学(農)博士課程を修了した後、ワシントン大学(医)にポストドクフェローとして移る。
その後、ハーバード大学(医)との兼任を経た後、ミシガン大学(医)に移籍し、教授昇進。
2001年、日本政府の要請で(独)産業技術総合研究所に移り、その後、九州大学副学長と理事を務める。
現在、シアトル在住。ミシガン大学名誉教授・産総研名誉研究者